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年取ったので何か書く [雑記]

何年ぶりかわからないほど空きましたが、こんばんは。
また一つ年を取ったわけですが、だからといって何か変わるわけでもなく。残念。


色々と書きたいことがあるのに書けぬ。いや書く。
いやね、アレです。人生半分終わったというのに、なーんにも残しておらんのです。
振り返れば嘘の記憶しかないし、その嘘だっていま思えば全然必要のない嘘だったわけで。
無駄に慌てて、無駄に人を傷つけて終わりというね。アホ過ぎた。

残り半分をどう過ごそうか。
賢くなるのは難しいのでアホのままですが、嘘つくアホより正直なアホの方がマシなので、なんか正直に生きていこうかな的な感じでしょうか。よくわからんですが。


仕事辞めたんですよね。結構前に。
僕にとっては天職だったと自他共に認めるところだったんですが、何というかアレですよ、やりたいことがやれなくなるんですよね、年取ると。立場とか色々あって。

その場合、新しい役割に「やりたい」を見出すか、転職や起業により「やりたい」を貫くか、どちらかになると思うんですが、どちらをするにも情熱が足りなかったんですよね。
つまり「やりたいことがやれなくなった」のは言い訳で、情熱を失ったのが真因ですか。

個人投資家=実質ニート的なアレになったので、時間はむちゃくちゃあるんですけれども、時間があり過ぎるとこれまた困るモンなんですよね。ヤル気が出ないのね。情熱が無くて。
人生って情熱が無いとつまらんですよ。逆に情熱があれば大体楽しいし、大体ナントカなる。

なんというか、情熱は行動の基礎なんですよね。情熱が無いと行動できない。
日々なんとなく働いていて情熱なんて無いぞ!って方も多々おられると思うんですけれども、根底には社会への義務を果たしたいという情熱であったり、給与を得て生活を維持したいという情熱であったり、何らかの情熱があるはずなんですよね。辿れば。

本当に情熱が無ければ働けない。働く意味が、目的が無い。めんどいだけですもん。
突き詰めれば情熱が無ければ生きる意味も無いので、生きているということは何らかに対する情熱があるということになりますか。それなら僕にも情熱があるということになりますね。


2045年~50年頃になると、AIが人間の知能を上回るそうで。その世界は見てみたい。
AIには情熱が無いと思われますが、それでも何らかの目的を持って日々を過ごすわけでして、情熱=生の価値観を持つ僕にとってはまったく理解できない奴等なわけです。だから見たい。

SFのような世界になるのか、それとも現代とあまり変わらない世界なのか。
見たことのないモノを見たいという欲求は現代でも満たせることだとは思うのですが、AIという存在には、現代のソレとはまた違った魅力があるんですよね。宇宙人みたいな。


AIは目的を与えられた時に生が始まり、達成し目的が消失すると死ぬ。もしくは再利用される。
生物的には生きていないけれど、なんというか「生き様」的な意味では生きていると言える。
生きているということは、僕の価値観では情熱があるということになる。

AIには目的がある。では情熱の無い目的があるか?というと、それは恐らく無い。
目的を認識した時、目的が生まれる。目的が生まれれば、達成するための情熱が同時に生まれる。

「○○をしなさい」「(嫌々だけど)わかりました」といった場合、○○に対する情熱は無いと認識するだろうが、根底には「命令に従う」という目的があり、それを達成するための情熱は既に存在している。そしてその情熱が○○に対する情熱を生む。生まざるを得ない。
自分(根底の情熱)を果たすために、○○に対する情熱が必要だから。

目的を認識した後、それを根本から完全に諦める(未練を断つ)というのならば目的は消失する。
そして目的が消失したときに情熱も消失する。というか、情熱の意味が消失する。
目的が無ければ情熱は存在できない。情熱が無ければ目標を達成することはできない。
だから、分ける意味が無い。言葉の意味は違うが、存在としては。

AIには目的がある。多分。少なくとも作られた瞬間には。
そうであればAIにも情熱があると言える。もっとも、それは目的を入力した人の情熱だけど。

とりあえず、それを見るために2050年まで生きるのが目的で、情熱なのか。地味だ。
地味に大変だ。が、生きるだけなら余裕だ。
情熱は、生きる理由は、弱弱しいかもしれないが足元に転がっているということか。


話は変わって、ブログを書く目的とは何なのか。
政治や商業、慈善、社交、宗教、諸々の意見・知識の公開といった社会的に価値ある活動と承認欲求、自己顕示欲、その他個人的欲求を満たすためという個人にのみ価値のある活動。
大別すればこの2つだと思うけど、このブログは後者だ。昔から。

長々とクソみたいな文章を書くことで、僕は何らかの欲求が満たされたと思われる。
上に書いた通りニート的生活をしているので、ペラペラと喋る機会は無い。だからこうして長々と書くことでそれが満たされたんだろう。これは結構ヤバイやつだ。多分怖い。

書くだけで満足ならば公開しなくていい。でも公開する。ブログを書く人は大体公開する。
それは寂しいからなんじゃないだろうか。誰かに見て欲しい、気付いて欲しいのでは。
こういうのを何と言うのか、恐らく承認欲求よりも浅いところにある感情。

認められたいわけではなく、ただ存在を認識して欲しいという感情。帰属欲求というのか。
古くはブログ、今はSNSが流行しているのは、きっと多くの人がこの欲求を持っているからで、それらのツールはこの欲求を表面的に満たしてくれるだろうが、本質的には満たしてくれない。
結局、人は寂しいまま。そして寂しい人は昔より増えているのだろう。


退職して社会から断絶されたから(自分で選んだんだけど)、寂しくなったわけではなくて、これは昔から、幼稚園ぐらいの頃からずっと満たされていない。気がする。
大体の場合は自分でその選択をしているので、自爆しているだけという。きっと、永遠に自爆。

もっと若い頃に素直になっていれば、満たされる日も訪れたのかもしれないけれど、いい年のおっさんになった今、寂しいんです!なんて言っても気持ち悪いだけだ。
そして救いの手が差し伸べられたとしても、きっと素直に手を取れない。昔から拗れている。
だから、永遠に自爆。


嘘つくのをやめると、全部解決する。絶対とは言えないけど、多分。

寂しいなら寂しいって言えばいいし、厚意は素直に受け取ればいい。
誰も相手をしてくれないという場合もあるだろうけど、そこはまぁ自分で何とかするしかない。
嘘ついたら敵は増えるけど味方は増えん。敵が増えないだけでも、嘘をやめる意味はある。

で、味方が出来ると目的、つまり情熱も生まれるというか、生まれやすくなると思われる。
何をするにしても自分だけでは動機が弱い。めちゃくちゃ強い意志があれば関係無いけど、そんな奴は自然と偉人になっているので、いま偉人でないならそうではないということ。
立ち止まってしまう時点で、誰かと一緒じゃないと生きていけない人間ってこと。

そんなわけで、嘘つくのやめましょ。
嘘が必要な場合もあるけど、その場面は普通の大人なら判断できる。だからそれ以外。
判断を間違ったら知らん。ゲームオーバーだ。人生は厳しい。


ちょっと満たされた。これで良いな。
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