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 [雑記]

高難度の方が面白いだろ?ってのは誤り

・今週の読書
いつものアレ。

・残
多くの日本人が見落としていそうなこと。

ほいドン。


・今週の読書
今週読了した本:
ただしい人類滅亡計画-反出生主義をめぐる物語:品田遊

現在読んでいる本:
粘膜人間:飴村行

「ただしい人類滅亡(略」を読了しました。一応は小説という体になっていますが、実際には反出生主義を巡る議論の議事録ですね。とはいえ、登場人物ごとに異なる考え方・性格が設定されているので、会話劇として楽しめる内容となっています。

ストーリーが設定されているという都合上、最重要問題が意図的にスルーされていたり、前提条件のおかしさが最終版まで指摘されなかったりなど、ゴリゴリの論客にとってはまったくお話にならない内容なんですが、この本のあとがきには「答えを出すためでなく、いろんな考えがあることを認識するための補助(意訳)」とあるので、そういった位置付けの本としては文句無しと言えると思います。

問題があるとすれば、本を手に取る前にあとがきを読むのは難しいということですね。なのでこの本にゴリゴリの議論を求めていた人は期待外れと感じるでしょう。どんな帯が付いていたのかは分からないですが、帯に書いてあれば良いのですが。表紙がキャッチーな感じなので、それを見ればゴリゴリの本ではないと分かるっちゃ分かるでしょうけれども。

ちなみに僕は反出生主義ではなく、出産に条件(資格)を求める主義です。「誰にでも自由に子供を産む権利があるだろ!」と主張するのであれば、産んだ子供に対する義務も負うわけじゃないですか。その義務って何だよ?って話で、法律では養育の義務やら何やらとされているんですが、産む自由は定義されていないのでこれを引き合いに出すのは間違いです。

じゃあ「産む自由」に対する義務はなんだ?って話で、この辺りは本書で語られているので省略しますが、結論を言うと「幸福にする義務」なんですね。親は子供を幸せにしたいと思っているでしょうから、当然その義務を果たせると確信したうえで産んでいる…はず。確信できないなら産むべきではなく、自由論者はその辺りを甘く考えているんじゃないかと。

産む前は確信できていたとしても、人生はその通りに行くとは限りません。その辺りについては運転免許証で考えてみると分かりやすいんじゃないでしょうか。

運転免許証を取得する人は事故を起こさないようにしようと思っているはずです。そして運転免許証は車を運転する権利を付与してくれますが、安全運転をする義務も付与されます。もしも当初の思惑通りに行かずに交通事故を起こしてしまった場合は罪に問われます。故意かどうかで罪の重さは変わるでしょうが、基本的には無罪にはなりません。

覚悟が無ければ運転しなければ良いのです。運転は義務ではありません。自由意思に基づいて運転をした結果、起きた被害に対して責任を負うだけなのです。

そういうワケでして、性質的に出産と割と近いんですね。これを出産に当てはめるなら「子供が幸福になれなかった場合、罪に問われる」のは当然なんじゃないかと。罪に問われないというのはつまり、権利を行使するだけで責任は負わないということです。その無責任な行為を防ぐためには免許が必要です。覚悟・知識・経済力、それらが十分であると確認できない場合には責任を果たすことが困難であるため、出産を認めてはなりません。

運転免許証の試験が一夜漬けで十分突破できるレベルであるのと同じく、試験のハードルは低くて良いと思うんです。明らかにコイツはダメじゃろ…という人を弾くことができればそれでOK。最低限の知識と十分な覚悟があれば大体何でもできますからね。ただし、失敗したら罪に問われる。コレが大事です。コレが無いと何も意味が無いです。

誰が判決を下すのか?もちろん子供です。十分に幸福でなかったとしても、それなりに良い関係を築けていれば親を有罪にする子供なんていません。基本的には無罪となるはず。よって、子供に有罪判決を下された親というのはよほどアレということです。

その場合、いつまで義務が継続するのか?となるんですが、それは当然子供が一生を終えるまでです。しかし一般的には親の方が早く死ぬし、死んでからは罪を問うことはできないので、例えば10年毎といったタイミングで罪を問うと良いでしょう。

これは別に大人になってからも親のすねをかじるということではないです。子供が「生まれて良かった」「産んでくれてありがとう」と思えるかという話なので。

しかしこれはかなり無茶な話で、人生というものは予期しない何かによって突然不幸になる場合があります。親がどれだけ完璧に振舞っても、子が不幸になることを避けられないことがあります(子自身が不幸を招く場合など)。そういうわけで超理不尽な決まりなんですが、それは出産も同じこと。新たな生命を生み出すということは、それほどに理不尽なことなのだという認識が必要なのです。

このような決まりがあれば、反出生主義でなくとも人類は勝手に滅びます。子供を幸福にする覚悟・知識・経済力のある人しか出産できないし、そんな人は少ないからです。

本当は免許や罰則なんて無くても、誰もが出産という行為の意味、重さを熟慮し、理解したうえで産むかどうかの決断をすれば良いだけなんですが、人類は馬鹿なのでそんなことはできないのです。性欲や楽観的な妄想の末に生まれた子供が大半でしょう。

人類はそうやって現在まで続いてきたし、これからもそうなのでしょう。それは生物としては正しい姿なのだと思います。問題があるのは「我々は文化的な生物であり、動物ではない」とか主張するのに、生殖に関してのみ動物的であって良いというダブルスタンダードの主張をする人ですね。「我々は所詮動物だ」というのであれば問題無いです。

…というヤベェ思想を持っているので、僕は社会不適合者なんだなぁと。


今日からは「粘膜人間」を読んでいます。これも面白いなぁ…連続アタリですね。性描写がかなり露骨なので万人にオススメできる内容じゃないんですが、僕はそういった要素を排除することこそ不健全だと思うので、ちゃんと書いてあるのは好感が持てます。

文体が昭和の文豪のようにしっかりしているので、非常に読みやすいのも良いですね。言葉選びのセンスも素晴らしく、これこそまさに「表現作品」だよなぁと。そんな感じでサクサク読めてしまうんですが、前回と同様に260P程の薄い本なので、読み過ぎるとソッコーで終わってしまいます。セーブして読み進めなければ。


・残
ファンになれるようなモノ(作品?)を探そうと思っていたんですが、実はその必要は無いのではなかろうか?ということに気付きまして。

「新しい何かを探す」ってのはとても難しいことじゃないですか。どれだけ探しても見つからない可能性が高いし、見つけた!と思ったのに実はそれほどでもなかったり。

こればかりはもう運命みたいなもので、ミッキーマウスを見た瞬間にズキュン!と来る人、初見ではそうでもなかったけどディズニーの歴史を調べてドハマりする人、歴史を知ってもハマれなかった人など、色々いますからね。自分がどこに該当するかは、その瞬間が来るまで分かりません。なので果てしない旅になる可能性があります。(即ゴールもある)

そこで僕は気付いたのです。「過去の心残りを回収して行こう」と。過去の心残りというものは、確実にソコに存在することを既に知っているし、それが面白くても面白くなくてもとりあえず心残りは消えるので損することは無いのです。

現在の人生を5点としましょう。そしてマイナス1点の心残りが2つあるとします。ここで「存在するかどうか分からない新しい何か」を発見して2点加算するより「確実に存在する心残り」を消して2点獲得する方が確実&楽に7点にできます。

違いがあるとすれば、新しい何かは無制限に加点することが可能です。一方で心残りは有限なので、全てを消してしまったらそれ以上は加点することはできません。その後はやはり新しい何かを探すしかないので、結局は旅をすることになるのですが。心残りが無茶苦茶多い人なら死ぬまで困ることは無いでしょうね。

僕も心残りは幾つかあるんですが、とりあえずお手軽に消して行けるのはゲームですね。これまで「ゲームの時間は無駄じゃないが、やはり何も残らないことは確かであり無駄なのだ」ということで避けてきたゲームが結構あるんですよ。ニートになってからではなく、なる前の話ですね。やはり働いていた頃は自由時間が貴重でしたので。更に遡れば、金が無くて遊べなかったゲームも多々あります。

そういった過去の怨霊を成仏させて行くのがいいんじゃないかなぁと思うんです。古いゲームばかりですから、入手不可のゲームも多々ありますし、レア過ぎで高額になっているゲームもあるんですが、それらを避けても結構な数があるので暫くは大丈夫かなと。

ゲーム漬けになるのはアレですし、できるだけ長い期間を使った方が楽しさを持続できるので(クリアしたら終わってしまう)、1日のプレイ時間は制限して行きたいと思います。


そんな感じで、人生の点数を上げて行きたいと思いマス。
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